ハロプロDD soramiの囁き

ハロプロについて、あれこれと思いを綴ります。

スター、タレント、アーテイスト、アイドルの関係とハロプロ―こぶしファクトリー3人離脱について―

 テレビ番組などに出ている、スタッフ以外の存在を呼ぶ呼び方には、スターとか、タレントとか、アーテイストとか、アイドルなどというものがあるが、これらはどう使い分けられているだろうか。
 スターというのは、観衆からかけ離れた遠い存在ということであるが、最近は身近な存在が求められているせいか、あまり使われなくなってきている。タレントというのは、役者でもなく、歌手でもない、芸人(モデルなどを含む)であり、主にバラエテイ番組などに出ている者に使われているが、何のタレントがあるのかがわかりにくい。アーテイストとアイドルは対で使われることも多いが、どちらも主として音楽系で、前者はその個人やグループの音楽性中心で勝負している者、後者は若さやかわいらしさ、清純さといった、容姿やイメージ中心で勝負している者ということになろうか。

 

 次にこの4者の関係について考えてみたい。その際のキーワードは「なる」「する」である。これら4者はなるものであろうか、それともするものであるのだろうか。つまりこれらはその人の属性なのか機能なのかということである。属性であれば、本人にそうしようという意識がなくても、世間によりそのような立場に祭り上げられてしまうものである。一方で機能であれば、本人がそうしようとしなければ、そうではなくなってしまうものである。もちろん、どちらも必要最低限のことを本人がするのは前提ではあるが。
 こう考えると、スターとアイドルは属性的、タレントとアーテイストは機能的と言えるだろう。だから、タレントやアーテイストは、本人がもはやその機能を使わないと決めて、行動しなくなれば引退となる。あくまでも本人の意思次第である。これに対してスターやアイドルは本人の意思とは無関係で、世間によってそうであるかどうかが決められ、世間にもはやそういう存在ではないとみなされた時には、その属性は剥ぎ取られてしまう。その属性を付与するのは世間なのである。
 もちろん属性なくして機能は成立しがたいのであるが、スターやアイドルは属性がより求められ、タレントやアーテイストは機能が求められるということである。

 

 以上からすれば、スターやアイドルをし続けようとするのであれば、属性プラス機能が必要ということになろう。そして機能を維持し続けていれば、属性を失っても、タレントやアーテイストであることはし続けられる。ただし、現代においては、機能が強くなりすぎれば、スターやアイドルの属性が失われとみなされ、その称号は奪われてしまうことにもなるのである。なぜなら、スターやアイドルが世間から自立することを、嫉妬深い世間は許さないからである。自分達がスターやアイドルを支えているのであり、自分達がいてこそスターやアイドルが成立すると考えたいからである。民主主義を標榜する世間では、世間から自立している傑出した存在は、世間の敵として扱われるのである。だからこそ、スターやアイドルは、世間に対して謙虚であることが求められ、そのようにしつけられる。それからはみ出た者は世間的に抹消されてしまうことになる。
 以上を踏まえて、今回のこぶしファクトリーの3名の脱落について、少し考えてみたい。

 

 ハロプロの歌い手たちは、プロダクション的にも、もともとはアイドルではないとされてきた。
音楽やダンスのパフォーマー、つまりアーテイストとしての在り方が求められてきた。だからそういう点では本人の容姿という属性(プラス演出)以上に楽曲や歌い方、踊り方の質が求められてきた。そして、これが現在のハロプロのパフォーマンスの高さという評価とも結びついている。一方で、ハロプロの2つ目の特徴は卒業という代替わりの制度があることで、これはアイドルという属性の維持という所と関りがある。そして卒業後はアイドルではなく、現役の時に鍛えた機能を基に、アーテイストもしくはタレントとして行動させようとしているのである。
 以上からすれば、ハロプロはアーテイスト(タレント)を養成するための一時期間として、アイドル活動をさせる機関であり、卒業後に独り立ちさせることを前提にしている。そしてこれがハロプロの歌い手の存在の特殊さ=独自性であるが、これは前提として、1、卒業後もアーテイストやタレントして活動する意識を本人が持っていること、2、プロダクションが共通してその意識を持たせるように教育していること、そして3、それを教育するための組織や人材がいること、という3つの条件が存在することによって、可能となることである。もしこの3つの条件がなくなると、ハロプロはアイドルでもアーテイストでもない曖昧な存在となってしまうのである。

 

 以上挙げた条件の中で、まず1が揺らいできている。卒業後タレント活動をしないと宣言している者が増えてきているのである。例えば、ズッキやマイマイ、更には梨沙子である。次に2もつんくという総合プロデューサーが不在になったことで大きく揺らいでいて、ハロプロの性格が大きく変わったと考えられる。その一例は、アイドルの自称である。
 近年、ハロプロの歌い手は自らの事をアイドルと呼ぶようになってきているが、これはプロダクション的に方向が変わったということだろうか、それともあくまでもそれは非公式で、アイドルではないことは維持されているのだろうか。プロデューサーとしてのつんくは、アイドルとは自称するものではないと言っていたが、他から言われてもよいが、自分達から言わないのがアイドルの本来であることは確かである。だから、アイドルを自称した段階で、ハロプロの歌い手の意識が変わってしまったと言える。もちろん世間がアイドルとして遇しているから、それを自身も取り込んでアイドルと称しているのかもしれないが、このあたりはつんくが総合プロデューサーを止める前と止めた後の変化なのかもしれない。ただし、これについては、いつからハロプロの歌い手がアイドルを自称し始めたのかを歴史的に追求する必要があるので、これ以上の解釈はできない。
 私がたまたま見ていた動画に、こぶしファクトリーの田口と野村が、まことを相手にして、自分達をアイドルと言っているのに対して、まことが昔はハロプロは、アイドルを自称するのが禁止だと言っている場面があり、このあたりについては、プロダクション的にはつんくの意識が継承されていないということが明らかになっている。アイドルを自称することが、パフォーマーとしてのレベル低下(甘え)を招き、その結果としてのアイドルのレベル低下をもたらす。この悪循環が生じているのではないかと危惧している。

 3つ目の条件に関しては、ハロプロがオーデションから即デビューの形ではなく、研修生を経てのデビューという流れが中心的になっていること、そしてみつばち先生が健在であること、更に今回のオーデション番組でも安易に合格者を出さなかったこと、などからすれば、こちらについては、研修生の段階では大丈夫と思っているが、デビュー後については、2の不在と1の意識の低下を食い止める戦略が必要だと考える。

 

 今回のこぶしの3人の離脱は、パフォーマーとしての努力が見られなくなったことと世間的なアイドルのイメージを壊したことの2点によるものであるが、それはハロプロ卒業後に対する意識が変わったことと、つんく不在に伴う、プロダクションのタレントへの意識付けの不徹底に由来するものではないかと考える。そしてこのことはハロプロが普通のアイドルへと堕落していく危険性を秘めている。

 

 しかし、以上のような問題点を抱える一方で、かりんとさくらというハロプロ精神の権化、そしてあやぱんとりさまる、れいれいという冷や飯体験組、加賀段原一岡という長期研修組、そしてカントリー5人娘という困難荒波をプラスに変える存在がいるハロプロ、そして大勢のOGに対する信頼は世間的にも分厚い。だからプロダクション側も、20周年を機に、ここまで生じてきた歴史的な問題点を整理し、手を打っていくべきだし、オタク側もそれを支援していくべきであろう。内輪で非難しあっているだけでは、不毛どころかより一層の崩壊を招くだけである。