ハロプロDD soramiの囁き

ハロプロについて、あれこれと思いを綴ります。

ハロプロ楽曲大賞への提言。

 毎年恒例のハロプロ楽曲大賞の投票の時期が来た。ハロプロ楽曲大賞というのは、その年に楽曲としてCD化、あるいは配信された曲を、曲そのもの、MV、そして自分の押しの歌い手の3つの観点で、ファンが投票し、その投票結果に従って順位が決まるという、ファンによるファンのための行事であり、その一年間のハロプロの作品に対するファンの評価が示されるものである。

 

 その際に、楽曲部門とMV部門という2つの部門があるわけだが、この2つに対して、皆はどういう意識で投票し分けているのか、また、どちらを基軸として評価しているのかということが、私には気になる。そしてそれらを考えるにあたっては、楽曲とMVの関係性ということが問題になってくるのであるが、この楽曲大賞を主催している側では、このことについては基本的に言及されていない。つまりは、投票する各自にその二つの関係についての解釈は任されているという状況である。ただ投票順序としては、楽曲、MV、歌い手という順序になっていることからすれば、楽曲を基軸とし、まずは、歌や曲という音楽自体を基本に評価せよ、その上で、MVという派生を評価せよというように考えているのではないかと解釈できる。
 この解釈に従えば、MVの映像は、音楽に付随する演出的なものとして、音楽と切り離して評価するべきものということになろう。つまり、MVは、総合的なエンターテイメントとしてではなく、映像部門としての限定的な評価が求められるということになろう。

 

 しかし私は、ここ数年、ハロプロ大賞に投票するようになったが、その際のMV評価の基準は、総合的なエンターテイメント性であり、音楽性とタレントのパフォーマンス、ダンスの振り付け、衣裳、場面の切り替え、更に映像効果といった演出を含む総合的なマネージメントの水準に基づいて評価しており、楽曲そのものよりもMVの方を高く評価している。
 そして私がそうしているのは、アイドルとしての魅力というのは、その音楽性やパフォーマー的存在性を土台にした、マネージメントの結果としての存在性から生まれると考えるからである。ここでいうパフォーマー的存在性とは、歌のうまさ、ダンスのうまさといった所から生まれて来るものであり、マネージメントの結果としての存在性とは、音楽性+パフォーマー性+衣裳や演出や物語性といったものから成立するものである。そして、よくいわれることは、ハロプロは、音楽性とパフォーマー性が重視されるが、マネージメント性が不足し、49系のタレントはパフォーマー性が弱いが、マネージメント性が高いということであり、互いの評価はすれ違っている。

 

 ハロプロ楽曲大賞の主催者は、楽曲のみをまず取り出すことで、純粋に音楽性を評価した上で、次にMVの映像で、パフォーマー性とマネージメント性を評価させようとしているのだろうか。しかしハロプロはライブが命というのならば、パフォーマー性の評価は、MVではなく、ライブパフォーマンスで評価するべきで、だからこそライブ映像かライブDVDの評価があっても良い。もちろんライブでもマネージメント性は抜きに考えられないが、パフォーマンスは評価しやすくなる。


 もし、このような評価の曖昧性を減らすのなら、最初から、音楽、パフォーマンス、マネージメントという三部門で、各自に部門賞を投票してもらい、その上でトータルで評価の高い作品を、楽曲大賞委員会が、大賞として選び、という形の方が、評価の統一性があり、年間作品の評価としては、より望ましいものとなるのではないだろうか。また発表もそれぞれの部門賞ごとに発表し、そして最後に大賞という形で発表すれば、今以上に盛り上がるのではないだろうか。

 

 毎年のこの大賞の選定は主催者の多大な努力によって行われていることであり、その継続的な意欲と行動には、1ハロプロファンとして、多大な敬意を払っている。そしてこの投票結果が、ハロプロの将来やこの楽曲大賞の発展に、より貢献していくことを期待して、今回の提言をまとめさせていただいた。少しでも参考になれば、幸いである。