ハロプロDD soramiの囁き

ハロプロについて、あれこれと思いを綴ります。

カントリー娘、カントリーガールズという不思議な存在の過去と未来

 ハロプロの中で、カントリー娘、カントリーガールズというグループ(以下カントリーグループと称す)は、きわめて特異な存在である。それは、簡単に言えば、グループとしての枠組みが緩やかであるということである。これは意図的であったか、たまたま結果としてそうなったかは、わからないが、今回の新体制については、まぎれもなく、カントリー娘時代からの歴史と、カントリーグループの特異性を意図的に利用したものであると考えることができよう。


 具体的に言えば、カントリー娘の時代においては、モーニング娘。からの派遣がしばしばあり、モーニング娘。との融合体として、歌われた曲が複数あるということである。これは元々は、カントリー娘という箱の存続のために、活動の場を保証するという意図があったと考えられる。モーニング娘。からの派遣は、その派遣された者のファンたちを当然、カントリー娘へと誘導し、その結果、一定の売り上げが保証されるからである。そしてこれは、今回の新体制におけるカントリーガールズのメンバーによる、他のグループとの兼任というのは、逆のベクトルであるが、カントリーガールズの存続を保証するという点では同じ形になっている。


 以上のように考えると、ハロプロにおいて、カントリー娘という箱は、モーニング娘。についで、維持することが絶対的に求められているグループではないか、という仮説がここで成立する。そして、この仮説の正しさをうかがわせる事実が複数ある。1つ目は、カントリー娘にはメンバーの不幸な出来事や、不祥事などが次々と起こり、人数が少なくなり、里田まい一人だけになってしまったにも拘らず、解散や卒業という形で、箱の終了が行われていないという事実である。


 そして2つ目は、殆ど活動がなくなっても、箱を終わらせるどころか、オーデションを再度し、それで合格者がなかったということで、再建をあきらめることもなく、モーニング娘。のオーデションの最終エントリーに参加した実力者を集め、更に嗣永桃子という、アイドルのプロをPMとして参加させるという、大幅な強化をした上で、再登場させている事実である。これらは、よほどカントリー娘というグループに思い入れがないとできないことであろう。そう考えれば、一度目のオーデションで合格者がなかったというのも、なかったというよりは、高いレベルの者を集めようとしていたが、それに足りる者がなかったという結果でもあろう。これはモーニング娘。13期にどうしてこの2人が選ばれたのか、というのと同じである。


 さて、カントリー娘改めカントリーガールズは、異例のことが次々起こる。マイナーを経ずにいきなりメジャーデビューをしたり、人気の中心が契約上の問題で、デビュー数か月でいなくなったかと思うと、研修生の中での実力者をすぐに参加させたり、また、病になった者を卒業はさせたが、ハロプロには留め置き、病の回復を待って、再度活動を始めさせたり、PM卒業後は、本体の維持のために、リーダー格の実力者を残す一方で、主要なグループへとメンバーを派遣し、兼任させることで、各グループを活性化させるとともにに、各グループのファンをカントリーに還元させ、存続を保証しつつ、更に万が一、本体の二人に何かがあった場合に備えての、カントリーグループ存続の種も残すという風に、過去のカントリー娘の活動の縮小の失敗を踏まえて、グループの活動が一定レベルで継続できるように、配慮されているのである。
 こういう点を考えると、多くのオタが、今回の新体制をカントリーガールズ解体として捉えていることが、いかに大きな間違いであるかがよくわかる。


 さて、経営者側のカントリーグループ存続への熱意が何に由来するかは、更に検討する必要もあるが、ハロプロ研修生北海道と稲場愛香の復帰、そして北研のリーダー的な存在となるというのは、やはり、カントリーグループ存続と大いに関係があると考えるべきだろう。


 まなかんは卒業した以上、カントリーに戻ること自体は難しいが、OGとして、研修生を鍛え、その鍛えられたメンバーが、カントリーの3期生以下続く、となっていけば、カントリーグループは、後継者養成という形でも、東京の本体研修生がカントリー以外のグループのメンバーを提供するのと対の形となろう。


 また、カントリーグループの箱としての緩やかさから考えれば、嗣永桃子ベリーズ卒業後、カントリーのPMとして参加したように、カントリーガールズが北海道に来た時だけは、真カントリーガールズとして、まなかんも参加するという形も可能だろう。私がハロプロ経営者なら、そう考える。あるいは、カントリーガールズのメンバーたちには、もうそういう話が、まなかん卒業の段階で、可能性として、言われているかもしれない。彼女たちのまなかんへの触れることの少なさは、むしろ重大な計画を隠すためではないか、そういう期待もしている。